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浄土宗について

浄土宗の本山

総本山   知恩院 京都市東山区林下町400 知恩院 ホームページへ
大本山   増上寺 東京都港区芝公園4-7-35 増上寺 ホームページへ
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  知恩寺 京都市左京区田中門前町64  
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  善導寺 福岡県久留米市善導寺町飯田550 善導寺 ホームページへ
  光明寺 神奈川県鎌倉市材木座6-17-19 光明寺 ホームページへ
  善光寺大本願 長野県長野市元善町500 善光寺大本願 ホームページへ
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浄土宗檀信徒信条

一、 私たちは、お釈迦さまが本懐の教えとして説かれた阿弥陀さまのお救いを信じ、心のよりどころとしてお念仏の道を歩み、感謝と奉仕につとめましょう。 一、 私たちは、宗祖法然上人のみ教えをいただいて阿弥陀さまのみ名を称え、誠実と反省につとめましょう。 一、 私たちは、お念仏の輪をひろげ、互いに助け合い、社会の浄化と、平和と福祉につとめましょう。
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宗歌

月かげの いたらぬさとは なけれども ながむる人の 心にぞすむ
【意訳】
阿弥陀さまが放つ慈悲の光明は、あたかも月の光がすべてを照らし出すように、お念仏をとなえる人すべてに射し込み、救いとってくださるのですよ。

法然上人について

 法然上人さまは、今から850年ほど前、長承2年(1133)4月7日に、岡山県の稲岡で時の押領使漆間時国の子に生まれました。幼名は仏の申し子であるとして「勢至丸」と申されます。利発で丈夫な、武士の子にふさわしく育った勢至丸でしたが、9歳のとき、父の時国が敵対する定明に夜討ちをかけられ世を去りました。勢至丸は「恨みに恨みをもって酬いるような敵討ちはしないでほしい。それより出家して仏法を学び、私の菩提を弔って・・・」という父の遺言に従い、まず叔父の僧観覚について仏道への第一歩を踏み出しました。ところが、あまりの聡明さに感嘆した叔父は、13歳になるとこの子を比叡山に上げたのです。
 そこでは、初め西塔北谷の源光のもとに2年間学び、ついで東塔功徳院の学僧皇円阿闍梨の教えを受けることになりました。その年の11月、15歳で大乗戒を受け、一人前の僧となり、将来は比叡山きっての大学者で天台座主間違いなしと、その才能と学力を高く評価されていたのです。
しかし、出世や学問を究めるよりも、世の中の人たちを救おうと熱意を燃やす若き僧は、18歳の秋に今度は黒谷に隠遁修行する慈眼房叡空の教えを乞います。ここにきて初めて「自然法爾」の語から「法然房」、また二人の師の名前を一字ずつとって「源空」と名乗ることになりました。
それから6年間、5千巻の一切経を繰り返し読むうちに、南都(奈良)にいる学僧とも話し合いたいと許しを得て、十年ぶりに山を降りたのです。まず嵯峨の清涼寺に7日間参籠して願をたて、南都で他宗の大学者を訪ねて回りましたが、弟子になりたいというものはあっても、究極の師には巡りあえず、やむなく黒谷へ戻ってきました。それから20年、ついに『観経疏』の一文を選び取られたのです。
こうして法然さまは、43歳で浄土宗をお開きになり、京都の東山吉水(現在の知恩院のあたり)に庵をかまえました。

 いよいよ専修念仏一筋に浄土宗を開かれた法然さまのもとには、大勢の信者が集まり、文字通りお念仏の声が絶えません。その上、ある夜善導大師が法然さまの夢に現れて、お念仏の道がますます広まるようにと励まして下さいました。このお二人の劇的な対面を「二祖対面」といって浄土宗では大変に尊んでいます。
また文治2年(1186)には大原に出向いて、後の天台座主顕真と大討論をなさいました。世に言う「大原談義」として名高いこの事件は、長く浄土宗の歴史に刻まれています。
さて、このようなありがたい教えのもとに集まったお弟子には、実にさまざまな人がおりました。今日の浄土宗の正流を伝えた聖光(浄土宗第二祖)や西山派を伝えた証空、真宗を開いた親鸞、その他信空、隆寛、長西などのような僧たちはもとより、貴族で当時の権力者であった九条兼実もその一人でした。
 法然さまが66歳のときに書きとらせた『選択本願念仏集』は、この兼実のたっての願いによるもので、多くの経典から何を選びとるかという次第が記されている浄土宗の根本となる書物であります。
またお弟子の中には平重盛の孫の源智や、馬の背に逆さ向きに乗って東に下った関東武士の熊谷直実もいます。源智は永らく法然さまのお側近くに仕えていましたが、亡くなる2日前に、法然さまにお願いして、一枚の絵に念仏の教えを書いていただきました。これが「一枚起請文」と称される、お念仏の神髄が述べられた貴重なものです。こうした専修念仏の隆盛を妬んで他宗から攻撃され、宮中女官の出家事件も絡んで晩年、四国へ流罪となった法然さまは、そこでも二人の遊女を信徒にされたのは有名な話です。
 赦されて京都へ帰られた法然さまは、御年八十で、お浄土へお還りになりました。そして今、法然さまの教えられたお念仏を称える私たちも、みなその立派なお弟子に加えられているのです。
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